昭和43年05月07日 朝の御理解
人間がこの世に生を受け、この世に生まれて来る。そこから人間の苦労が始まる。それは死ぬるまで続く。そこを教祖は一生が修行じゃとこう仰った。この世に生を受けたという、そこから人間の苦労が始まる。そしてその苦労は死ぬるまで続くのである。俗にこの世には苦労しに来た様なもんじゃと言う事を言うが、それはもう全ての人間である以上、全ての者が感じる物である。
誰彼だけが苦労しに来たのじゃない。皆がそうなのです。それはもうおぎゃあと生まれた所から修行が始まる。そしてそれは死ぬるまで続く。成程一生が修行じゃと。唯そこんところを一生が苦労というか、一生が修行というか。そこのところでその人の一生涯の値打ちというか、それはあの世までも持って行かれ、この世にも残しておけれると言う様な、大変な事にまで係わって来るのである。
昨日久留米の岡崎さんが毎日参ってみえて、その前日が築水連合会の、青年会の信心実習会が御座いました。二十何ヶ所かの教会の、青年信徒が集まるわけです、ここからも、23名まあここの青年会の、トップクラスの方達が参りました。五十名あまりの集まりの中に、23名というのですから、まあ半分は合楽だった訳なんです。ですからお話の中にも、矢張りその結局、合楽ムードというか、合楽で日頃頂いておる信心が、大いに語られたらしいんです。
けれども、合楽の信心はあまりにも難しい、あまりにも哲学的だ。いや哲学的だと言うよりも超哲学的と。だから講師の先生がうんそうだ、そうだとこうまあ合点しながら聞いて居られた様であって、一般には恐らく分からなかっただろうと、言う様な事を帰って話して居りました程に難しい。だから程に有難いのであり、又そこを極めて行こうとする事は、程に楽しい事なのである。
だから、本気で勉強しようという気にならなければ、合楽で、合楽で私が言うておる事は、」分からない事になるのです。中で「信心とは何ぞや」と言う様な問題が、出たそうです。けどもなかなかその、それぞれに合点の行く様な、話は出なかったらしいんですが、中でその、岡崎さん、もし自分に、それを問われたら、自分はどう答えるだろうかと、こう思うた。
なかなか咄嗟に答えられなかったと言う程に、信心とはどう言う事かと言うたら、もう本当に難しい事。信心しておる者が信心とは何か、どういうものかと問われてもなかなかそう簡単に答えられない。それから帰りよってからずっとその事を考え続けた。寝てからも考えた。昨日もこちらへお参りするお参りしながらも自動車の中でその事を一生懸命、考えて結論を得たと言うて、昨日ここでお届けをされるのです。
先生信心とはもう真心で言う事、真心で聞くと言う事ですねと言う訳である。私もそれを聞きながらそうです。それが全部じゃないでしょうけれども確かにそれが信心です。信心とは真心で言う事だ同時に真心で聞く事だ。是は岡崎さんの信心がそこへ結論が出た。そして思うた事は自分はここで信心をさして頂く様になって、お商売は自分は下手だけれども下手だけれども、お客さんに対して心にもない事は言わん事にしておる。
これを買うときなさい、確かにお宅が儲かりなさるですよ、と言う様なもんじゃなからにゃ無理には勧めない。又向こうから言われる事も、ねぇごつどん言いよるじゃろうかと言った様なもんじゃなくて、それを真心で聞くと言う事を大体行じて来た様に思う。だから、それが矢張り信心だという訳なんですから、もう百人百様自分がその行じておるその信心。その事が矢張りもう信心になるのですね。
信心とはね人の悪口を言わん事。と例えば決めた人はもうそれが信心だと。人の悪口でも言う様な時にはその場におったら出来るだけその場を逃げよと仰る。その人の悪口を言う中にかたるな。と言う事を御教えを頂いてはあ信心とはそう言う物かと自分の心の中にしっかり頂いて、人の悪口どん言う段じゃない人が悪口でも言うごたる時には、その場を逃げる。その事を本当に行じておる人は私は信心とは人の悪口を言わん事だ。
人の悪口にかたらん事だと、私は決まって来るだろうとこう思うですね。ですからもう百人百様その信心は違う。又椛目で椛目からもうこの合楽にかけて、信心とはと言う事を、言わば聞いておる訳ですからもう話すなら限が無い程なんです。そこのところを例えば教祖は信心とはどう言う事かと言うておられるかと、もう実に簡潔実に簡単。しかもそれがさっき私が申します様に実に哲学的である。
哲学的と言うよりももう哲学なんかという、その学問を超えたものである。「日に日に生きるが信心なり」と仰せられる。もう、もうそれは、もう本当に限りが無い程に深さを持った言葉だと私は思う。「日に日に生きるが信心」。それを何時かの御理解に「信心とは日に日に死ぬるが信心なり」という御理解を頂いた事が御座いましたですね、皆さんも記憶しておられるでしょうが。
信心とは日に日に死ぬる事なんだ。その「日に日に生きるが信心なり」という、それをもう少し、見やすう説明した言葉が「日に日に死ぬるが信心」と言う事になるのです。「日に日に生きるが信心なり」という、非常に難しい事です、ね。まあそれはその時の御理解での、まあ短い言葉だけを使いましたが、今日私が皆さんに聞いて貰う事は、信心とは、ね、日に日に生きると言う事が信心であると。
しかもその、生きると言う事は、この世に生を受けたその日から、私共が死ぬる日に至るまで、苦労の連続であると言う事である。どういう大変な素晴らしい、大金持ちの所に生まれた、言うなら赤ん坊でも、もう生まれた時から修行がある。それを仏教では業という。業(ぎょう)という字ですね、業とは。そこに人間の業が始まる。是は死ぬるまで、但しその業そのものをです。
いかに受けたか、受けて行くかと言う事が信心であり、受けたかと言う事が、あの世にも持って行き、この世にも、残しておけれると言う事に、なって来るのですから、大変な事ですね。そこに御理解に、一生が修行じゃと。年をとっても、学者が眼鏡を掛て、本を読む様なものであろうぞいと、仰っておられる。限りなくその事を極め、その事を、勉強していかなければならない。
その例えば苦労と思うその苦労の実態と言う物を、極めて行かなければならん。そこに私は教祖金光大神の生きられ方と言う物が、愈々大きくものを言うて来る言わばクローズアップされて来る訳です、私共の生き方の中に教祖生神金光大神の、いわゆる生きられ方。どういう生きられ方をされたか。難儀をどの様な風に修行として受けておいでられたかと。そこでまあここでちょっと分からして頂く事なんですね。
どうでも私共がですね、教祖の生きられ方と言う物を先ずマスターしなければいけん。そこにあの、金光大神の精読というかね、金光大神の勉強が必要なのです、教祖がどう生きられたか、それはその生きられ方が、いわゆる実意を極めたものであった。丁寧のもう限りを尽くされた。しかもそれに神信心と言う物が、いわゆる実意丁寧神信心のご生活があった。そのご生活振りと言う物をです。
私共が如何に神習わせて貰わなければならないかと言う事を、ここにどうでも感ずる。もうそこにしか、助かり様が無いのだ。そういう生き方にしか人間が使う幸福と言う様な言葉はもう有り得ないのだ、お取次ぎを願いお取次ぎを頂いて日々信心生活。お取次ぎを頂いて、信心の稽古又はそれがそのまま信心の生活へ繋がって行く。お取次ぎを願う。例えば様々な難儀な問題なら難儀な問題でも、お取次ぎを願う。
そんならお取次ぎを頂いていかなければいけん。次にお取次ぎを頂いていかなければいけん。そのお取次ぎを頂くと言う事がです、そのまま金光大神の言うなら、思われられ方、生きられ方。それをもうひとつ言うなら、天地の道理に合うた生き方を教えて下さるのである。天地の道理に合うた考え方を教えて下さる。だからどうでも、御理解をね、頂きお互いがお取次ぎを願わして貰う。
お取次ぎを頂いて行かなければいけないというお取次ぎを願いお取り次ぎを頂くとこういう。そういう生活がそこから始められて来る。お取次ぎは願っても、お取次ぎを頂いていかないとするともうそこから、言わば金光教の本当の信心と言う物はもうくずれる。それは出来ても出来んなりでもです、曲がりなりにでも、それを頂こうというだから姿勢が必要だと言う事。
ですから、それを又、さっきの信心とはと言う事になりますとですね、どう言う事になるかと言うと、神様のお心を分からして貰う、いわゆる御神意を悟らして貰う。神様のお心、お取次ぎを頂く時にそれが分かる。お取次ぎを願う時は分からん。願うから、まあ言うならある場合はわがまま勝手、自分の身勝手な事ばかりを願う様な場合もあろう。だからそれはいいのです。痛いなら痛い痒いなら痒い。
牛馬の事に到る迄実意をもって願えと仰るのだからいいのだ。けれども願うたら又お取次ぎ頂いて行かないけん。そこに、所謂御神意を伝えて下さる。だから信心とは天地の親神様のお心を分からして貰、そのお心に添うて行く精進。努力をする事が信心なのだと。まあ言う事にもなる訳ですね。そこでその信心というのは、見やすいものじゃが、氏子から難しゅうすると仰せられるが。
それを私は見やすいというよりも、嬉しゅう楽しゅう有難く出来れる信心を頂きたい。最近私は皆さんに聞いて貰ってる訳ですね。いわゆる信心をエンジョイすると言う訳なんです。生活の中にお風呂に入りますね、まあ口には出さなくてもはあ極楽という気が致しますですね。丁度自分の体温に合うたお風呂へ入って、まあ言うなら大きな風呂にこうふんぞり返って入らして頂いておる様な。
なる程口には出さんでも本当に極楽という、はあ極楽極楽と言おう様にある。私はねそういう信心に入りたい。同時にお風呂に入ったからには矢張り洗わにゃならん、垢を落とさにゃいけん。所がタオルでごしごしこすっただけじゃあ落ちん。落ちる垢もあるけれど落ちない垢もある。そこで石鹸が必要である。信心という言わばお互いお風呂へ入らして貰う事によって、是は信心でなからなければ味わえない。
そこに人間の幸福というか、しみじみ幸せを感じさして貰う、はあ極楽という境地がある。それはお風呂へ入るというだけじゃあない。信心に入ったならば先ず、洗う事を磨く事を教えられる。だからその磨く事も洗う事も楽しいのである。しかもお取次ぎという石鹸を頂くのである。自分ではどうにも出来なかった自分ではどうにも、是をまっすぐしようと思うてもまっすぐ成らなかった。
この垢を落とそうと思うけれども、どんなに押しこくっても落ちなかった物がです、お取次ぎを日々頂いて、日々その事を繰り返し繰り返しお願いさして頂きよったら、石鹸を付けさして頂いて落ちない垢が落ちる様に、落ちて行くね。タオルを使う手ぬぐいを使います。皆さんがお風呂へ入ってからこの手ぬぐいは頭ば洗うと、この手ぬぐいは足ば洗うと、矢張り人間の体の上にはそうですね。
皆さんはお風呂に入られる時に一番初めにどこを洗うてお風呂へ入られますか。この頃お道の新聞に青年誌かそのアンケートが出てあった。顔を先に洗うという人がある体を先に洗うという人がある。いや一番自分の大事な所場一番先に洗うという人がある。それぞれである。それはまあひとつの習性習慣でしょうけれどもね。矢張り体の中でも本当言うたら同じでしょうけれども、清い所もありゃあ汚い所もあるのである。
だからと言うてタオル一本をです、皆さんが使い訳なさる事は無いでしょうが。一本のタオルで上の方も洗やぁ下の方も洗うのです。私は教祖の御教えの中に様々な御教えがある例えば食物訓がある。又はお産の御教えがある子を産むに、自分の力で生むと思うな、みな神の恵む所ぞと言った様な、特にあの産婦に対する御理解があるんですね。ですからもう四国辺りではね、もう金光様っちゃあお産の神様と言うそうですね。
大阪辺りでは、金儲けの神様という。商売人が多い所ですね。そこそこのひとつの特色がある訳なんですね。だからと言うてです、例えばお産の御教えだからと言うて、金の足りない時に、そのお産の御教えを頂いて、金のお繰り合わせを頂けれる御教えなのだと。胃が悪い時に、体が病気の時に、お産の御教えでおかげ頂くのである。んなら、お産をする時に、食物訓の御教えを頂いて、助かる道なのです。
けれどもそこにです、教祖の教えておられる、その御教えの深遠さというか、深さ広さと言う物に触れないと、その自分のこの琴線に触れて来ない、心に触れて来ない。妊産婦だけに下さる御教えではない。子を産むにと言う事は一切の、例えばものが生みなされてくる、おかげが生みなされて来る為に、自分の力でどん儲けだしどんすると思うな、みな神の恵む所ぞと頂けば、お産の御教えでおかげ頂くのです。
食物はみな人の命の為にと言うて下さるが、胃の悪い人に食物訓でなかにゃ助からんと言った様な事はないのある、ね。お金の足りない人にでも、病人にでも、お産の人にでも食物訓の御教えをひとつ解けば、それが本当の事が分かれば、神意が分かれば、いわゆる神様のお心が分かれば、それで助かるのだ。食物はみな人の命の為に、全ての事柄がです、私共の心の生命の糧である。
これ一切神愛と私、最近。どんなに嫌なことでも難儀な事であっても、それを心の糧として、頂くのである、生命の心の為に恵んで下さる、与えて下さる糧なのである。と言う風に、その深さに触れてまいりますと、食物訓でもどの様な、例えば問題、難儀にでも、ぴったり合う様になっている、それは丁度お風呂の中で使う、一本のタオルで上も下も洗う様なものだと。ですから、教祖の御教えの一言でも一か条でも、ね。
私共が本気でそれを頂くと言う事になればです、岡崎さんに言わせればですね。信心とは真心で言う事である、真心で聞く事であると言う事になって来た。今日ここに江口の日吉さんがお参りになっておられますが、日吉さんの事をもう10年位前だったでしょうか、あちらの部落から参って来る方が言われました。もう日吉さん達兄弟には関心しますっちゅう。なしてそげん関心しなさるですかっちゅったら。
もうこの人達ばっかりは人の悪口語らっしゃったこつがなかちゅう。もう婦人会なら婦人会が寄ってから人の悪口どんが出よるとです。何時の間にか何処にかちゃんとおらんごとなってしまいなさる。もうほんに関心なもんですと言うて聞いた事がある。だから、日吉さんにはもう、その教祖の御教えその一つがです、信心とは人の悪口を言わん事だに徹底しておられれば、それが信心だと言う事が言えるのある。
それでもう一切が助かるのだもう一切が助かるんです。それはタオル一本の様なものである。所がそのタオル一本では落ちない垢を、お取次ぎを頂いて石鹸を借りるのである。そしてお風呂の中に入らせて頂いて、初めて、はあ極楽と言う事に成って来るのである。 だから、いかにその教えに、徹しなければいけないかと言う事が分かるのです。私共が生まれる。もうそこから人間の難儀は始まる。
しかもその難儀は私共が死ぬる迄続くのである。それで本当にこの世は苦の世苦の世界で終わるか、この世を有難い勿体無いで終わるか、その一生の苦労というものはもう私共がこの世に生まれて来る時にそういう業をかろうて生まれて来るのだ人間は。そこに私は教祖生神金光大神の本当に人間としての信心。当然当然じゃない本当に幸せを願うなら、金光大神の生きられ方を頂いて。
生きられ方にいかに神習わして頂く事がその苦しい世の中をです、いかに有難い勿体無いで過ごして行く事が出来るか。教祖もやっぱりそこを一生を修行じゃと仰っておられるけれども、その修行さして頂く間に、今日私が申しました、風呂の例話の様にです、有難い勿体無いと言う事に成って来るのである。はあ極楽という事に成って来るのである。しかもそれがあの世にも持って行かれる。この世にも残しておけれると言う様な、大変な事に成って来るのである。
飲んで食うてちょい一生ああ苦しかったという、苦しき事のみ多かりきと言う様な林文子の言葉じゃないですけれども、それで終わったんでは、人間がいかに詰らない事かと言う事、又如何に詰らない生き方を、して来たかと言う事に成って来るのである。私共のその生き方と言う物がです、難儀をどう頂くか、その、その生きられ方をです、教祖は身を持ってお過ごしになられたと言う事になるのです。
教祖のご一生と言う物を、金光大神に、まあ詳しく出ておりますね。あの金光大神を読まして頂きますとです、ははあ、こういう生き方、こういう実意な考え方、丁寧なあり方が有るのだと言う事をです。しかも神信心、実意丁寧神信心。そこんところを、私共はお取次ぎを頂いて、金光大神のお徳にお縋りして、おかげを被って行く所からです、信心は有難いだけではない、楽しいものだ、本当に嬉しい喜ばしいものだ。
こういう苦しい中にでも、こういう喜びを分からして頂いておる、いくと言う事は何と信心の有難い事で有ろうかと言う事になるのである。そこで皆さん、日に日に生きるが信心なりという、もうそれこそ、もう深遠、揺るぎの無い程の深遠な、その御教えですけれども、大体おぼろげに今日の御理解頂くと分かるでしょうが。「日に日に生きるが信心なり」。是はとても大変な、言わば深い響きを持ったお言葉です。
簡単簡潔ですけれども、日に日に生きると言う事が信心なのだと。と言うてんなら唯、日に日に、是を苦労を苦労で過ごして行くという生き方ではなくてですね、是を修行としていく頂き方。いわゆる金光大神の生きられ方なんです。それが信心だと仰る。日に日に生きるが信心なのだ。そうすっと、信心とは何ぞやという時に、そうですね、簡単に言えば、日に日に生きる事が信心ですよ、と言う事が言える訳である。
それをなら自分銘々の信心でです岡崎さんはかく答えられた。日吉さんならばかく答えられるであろうお互い銘々ならば信心とは自分が本気で教えておるね。自分が日に日にその事を教えに取り組んでおるその徹底して行きよるその事が信心なのだ。と説明が確信をもって答えられるだろう同時に今日の御理解を頂かせて頂く、日に日に生きるが信心なりという簡単な説明が。
まあ十分とは言わんでも大体皆さん合点が行く様に、おかげが受けられるであろうしかもそのおかげを受けると言う事。日に日に生きるが信心なりという御教えをです、今日頂いたそこにはなら一言にしてまた言うと、教祖の生きられ方そのものが、私共の生き方の中に頂かせて貰うと言う事が、信心とは我心が神に向うのを信心というのじゃと、仰る様なに成って行くのである。そこに信心が楽しいものお風呂へ入らせて頂き。
極楽を感じる様な、私は日々がです、どういう難儀な中にあっても。はあ今日はもう大変な一日であったけれど、お風呂入らして貰うて、長うなってて。こうやって湯船に浸からせて頂いてから、はあ極楽とこういう、いう有難いものに、浸らせて頂く事が出来る。しかももう、きつかけんで洗わんめじゃなくてから、やっぱり入ったら最後、矢張りタオルでごしごしおしこくらないけん。毎日洗わにゃいけん。
毎日磨いていかにゃいけん。しかも石鹸というお取次ぎを頂いて、洗いあげていく時に、すきっとした体で、すきっとした気持ちで又湯船に浸かる時に、愈々その極楽を感ずる事が出来る。信心とはそう言う様なね楽しい物に、お互いして行くひとつの努力というか、そこ迄を信心が、私は精進されたらです、成程信心とは難しい物じゃない、見やすい物だ。見やすいだけじゃない楽しいものだ、有難いものだ、喜ばしいものだと言う事に成って来るのじゃないでしょうかね。
どうぞ。